終末期医療はそれほどお金がかかっていない
「国の医療費が増大しているので、延命治療は無益」
「安楽死制度を取り入れて、医療費を減らそう」
そのような言説が、巻き起こることがあります。
どうも世間一般では、終末期医療の費用が、医療経済を圧迫しているという認識が一部であるようです。
けれども、医療経済学者による『「改革」のための医療経済学』(兪炳匡著)
などで示されているように、実は高齢化というよりも、高額の医療機器や医療技術の発達などが医療費の伸びに影響していることが指摘されています。
今回、市川衛さんが面白い記事を書いておられました。
「死ぬ前1か月の医療費さえ削ればよい」落合陽一氏×古市憲寿氏対談で見えた終末期医療の議論の難しさ
それによると、1年間にかかった高齢者全体の医療費のうち、終末期医療にかかった割合は1割、死亡前の「1か月」に限定すれば全体の3%程度であるとのことです。
そしてさらに興味深いことに下記の図が挙げられています(上のリンク記事から引用)。
このうち、最後の数か月に医療費の伸びが目立つのは、bの「死亡する1か月もしくは2か月前から入院した」ケースなのです。「死ぬまでの1年間、全く入院しなかった」ケースがaで、cが「死亡する前の1年間、ずっと入院していた」ケースとなります。
bやaは基本的には元気だった方ですね。
なぜ、もともと健康だった方が最後の1、2か月入院すると医療費の伸びが目立つのか。
それは考えればわかりますね。
元の状態に戻ることを企図して、密なる医療が行われるからです。
一方で、もともと病弱だったりした場合には、それほど伸びがないことがわかります。
つまり、無用に過剰な医療介入は避けられているようにも見えます。
全体の3%程度を削減するために、国の医療費を鑑みる視点から、「延命治療を控えろ」「安楽死を導入すべき」というのは飛躍があるように感じます。
もちろん減らせるものは減らすほうが良いです。
しかしコストありきで、「国の医療費のために延命治療を控えろ、安楽死を導入せよ」というのは、その効果が限定的であることからも違うと言えるでしょう。
医療費からではなく、その方の生き方に沿った視点から、「希望していない延命治療は控える」という姿勢が、あるべき姿勢のように感じます。
そしてそれが真の文明国であり、先進国らしい考え方とも言えるのではないでしょうか。
延命治療不要論を唱える前にまず自分から始めること
希望するレベル以上の延命治療が行われてしまうことの原因の1つに、従前から意思表示をしている例が少ない、という現実があります。
自分で全て決断できればよいのですが、延命治療の如何を判断しなければいけない時、往々にして「自分はその意思を表示できず、ご家族が決断する」のです。
そのため、十分ご家族と相談しておかないと、いざという時に自分の希望と正反対の決断が為されることもないとは言えません。
自分ではもういいと思っていても、ご家族が諦めきれない場合あるのは、考えればわかると思います。
コスト削減の議論や、安楽死制度の導入議論も結構ですが、まずは自身がご家族と有事の際の相談をしっかりとしておくことのほうが重要なのではないかと思うのです。
それなのに、死が近い場合に受けたい医療・療養や受けたくない医療・療養について、実際に家族などや医療関係者と「詳しく話し合っている」方は 2.7%に過ぎないのです。これだけ死や病、老い、延命治療等が話題になっているのにもかかわらずです。
あくまでご本人自身の良い生と死のために、要らない医療は遠ざけ、結果的に医療費が削減されるのが最良であって、コストをスタートとする観点から延命治療や安楽死が語られるのは良いことではないと考えます。
また、一律に延命治療を削減すべき、とすれば、その中に含まれる苦痛を和らげる可能性のある治療まで削られてしまうかもしれません。
「自分が意志表示できないかもしれないから十分事前に相談する」
その情報が伝わってほしいと願います。
そしてあくまで、「人間らしく生き、人間らしく死ぬ」ことが最も大切にされ、そこから議論が始まるようであってほしいと思うのです。